ダンス・ダンス・ダンス

アレキサンダー・マックイーンが自宅で首を吊ったという知らせ。彼は作品のなかでいつだって死と戯れていた、というカール・ラガーフェルドの追悼のコメント。菊地成孔が記した、自殺と他殺、フォーク/文学とラテン/ダンスという言葉の羅列。それらがコレクションの印象とともに波紋のように広がって重なり合う。故人もまた「物語」というキーワードによって語られるかもしれない。この世からいなくなってからそのことに気付き、強く揺さぶられた。そんなとき、僕ら二人の冒険が終わった。


冬のオリンピックは見ていて本当に別世界のよう。二人の男女が普段着のような格好で氷の上を滑る。そんな映像に目を奪われる。カナダのジェシカ・デュベ、ブライス・デービソン組の演技。使用された曲は『The Way We Were(邦題:追憶)』 。今まであまり興味を持てなかったフィギュアスケートだが、その美しさを前に本当に泣きそうになった。



森の生活

夏が過ぎた頃から、夜にグレン・グールドゴールドベルク変奏曲を聴いています。

偶然、テレビでグレン・グールドについての番組を見たのがきっかけです。俗世間から離れ、森の中で生活していた時期があったことや、夏目漱石の『草枕』なんかを好んで読んでいたことをそこで初めて知りました。色々な映像のなかでも、ピアノの前で身体を小さく丸めて弾いている姿はとくに印象的で、CDのジャケットから想像していたものとは随分異なりましたが、強く惹かれるものがありました。


前々からゴールドベルク変奏曲はずっと手元に持っていて、それまでも何度も通して聴いたことはあったのですが、30分ほどの映像によってこんなにも曲の印象が強くなったり、新たに加わったりするなんて、少し不思議な気持ちがします。


しばらく耳をすませて聴いているうちに、自分もピアノで弾けるような気がしてきて、実際に弾いて一つ一つ音を確かめてみたら楽しいだろうなと空想したりします。ピアノの音だけでなく、グールドが演奏中に洩らす声もいいですね。




バッハ:ゴールドベルク変奏曲(55年モノラル盤)

バッハ:ゴールドベルク変奏曲(55年モノラル盤)


バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1981年録音)

バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1981年録音)

夏芙蓉の香り

むせ返るほどの夏芙蓉の甘くて強い香り。そんな強い刺激を欲して、この夏は中上健次千年の愉楽』を行き帰りの電車で手にしていました。疲れきった身体とは対照的に一日の終わりになると覚醒しだす意識を静めるために、強い刺激にはより強い刺激を、と。季節が移り変わりすずしくなった今となってはあの夏の熱っぽさも、夏芙蓉という花そのもののように幻に思えてきます。


中上健次の残り香なのか、家の庭にも酔芙蓉という花が咲いていることを知りました。酔芙蓉は特に強い香りもなく、想像の夏芙蓉という花と比べてみると随分印象が異なりましたが、秋の朝の空気に触れて、すでに大きく花を開いている酔芙蓉の姿を目にすると、毎朝とても清々しい気持ちになりました。それでいて、その色っぽい名前の通り、時間が経つと白色からピンク色に変わっていくのですから、これもまた素敵です。休みの日になると、思い出したように庭に下りては、気にかけたりするようにもなりました。


夏の終わりから今まであれだけ楽しませてくれた庭の酔芙蓉も、一つまた一つと花が咲かなくなってきています。あとどれくらい見られるのか察してみると、少し寂しい気持ちがしてきます。視線をうつすと、足下には彼岸花が咲いています。



千年の愉楽 (河出文庫―BUNGEI Collection)

千年の愉楽 (河出文庫―BUNGEI Collection)

ザ・ダイバー

先日、野田秀樹作・演出の『ザ・ダイバー』を観てきました。
友達の舞台は観に行きますが、他ともなると一度、『アルジャーノンに花束を』を観たっきりです。手に入れられるかも分からない1000円の当日券を求めて、ふらっと軽い気持ちで池袋の街に降り立ちました。すでにできていた列の後ろに並び、どこか現実感のないまま座り待っていたら、野田秀樹の世界を体感するに至りました。広場ではアコーディオンとバイオリンの音が聞こえてきます。素敵な日曜日のなかに自分がいました。


公演が終わり外に出ると、日はもう随分と傾いていました。
一千年と一年目ということなんだろう、と思いました。ロンドンで上演されたあとの日本バージョンが今作とあって、もともとはイギリスの役者さんたちが『源氏物語』に純粋に興味を持って触れてみたのだろうと思います。

近頃の僕には、どうも源氏物語という存在がそこまで遠いところにあるようには思えなかったりします。日頃乱雑に何かに触れていても、結局色々と辿っていったり遡っていけば源氏物語に辿り着いてしまうことが多いのです。高校の頃の教材としても触れますし、漫画で触れたことのある人も案外多いかと思います。源氏物語に感動した文豪たちの小説などから知らず知らずのうちに間接的に触れていることもあると思います。色々な人が触れてきたにも関わらずつまらないという話はあまり聞いたことはなく、皆が面白いと言うから驚きです。

『ザ・ダイバー』はポスターを見てもパンフレットを見ても「魂」という言葉が踊っています。「魂」という言葉を聞くと、小林秀雄の講演のなかで触れられていた柳田国男の話にとても感動したことを思い出します。ただ、僕自身が特別何かを感じたり、伝えられたりするようなことはありません。何も言えることはなくても、源氏物語が書かれた頃の生活と、今の時代の僕らの生活との結びつきを、人それぞれが自分なりに感じられていれば、そのことだけでも十分なことのように思われます。僕も『ザ・ダイバー』の世界の下敷きとなっている『葵の巻』までは読んでみようと思います。『葵の巻』は『源氏物語』の中でも序盤の話ですし。


今まであまり触れたことがなかった舞台という世界は、音楽や文学などとはまた違った異様さを感じました。人前に露出することを仕事としたり、一芸に秀でている人はどこか普通じゃないところを持っているのでしょうが、僕には特別奇妙な人たちに映ったのでした。

ライオンとペリカン

こんばんは。
そろそろ季節の変わり目ということでしょうか。この頃は夜になると、眉間から頭にかけて少し痛み出します。からだは知らないところで色んなことを感知してくれているのかもしれません。


夏が過ぎ去った後の、これから少しばかりのあいだの肌寒さは、僕にとって特に印象深く、肌から染み入ってくる物悲しさに触れると、高校生の頃の文化祭が終わってからの日々の記憶に不思議と結びつけられたりします。このことがどう作用するのか、本に向かおうとする気持ちもより一層強まる時期であったりもします。


先週、教育テレビで「LIFE 井上陽水〜40年を語る〜」という番組が、四夜連続で放送されました。自ら綴ったキーワードとともに、井上陽水が、独特の間でもって自分のことを振り返っていく姿がとても印象的でした。合わせて4時間分の番組ともなると、番組のナレーションを務めた宮沢りえの「陽水さん」という言葉がいつの間にか耳に心地よく染み付いているのにも気付かされます。


怒っちゃ負けよ。歌って(自慢して)も負け。喜んでも負けだしね。そんな風に語る陽水は、自分のむき出しの感情を提示すると時に身を滅ぼしてしまう原因となることを、博打やギャンブルから学んだそうです。どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか。僕は普段から何かとどこかに辿り着こうとしてしまう性分のせいか、そんなあやしくすれすれの感覚をもちながらも、知人の前で笑い、はじらいを見せる大人の男たちに憧れを持ちます。


煙草を吸わない。酒も飲まない。麻雀もしない。サングラスもかけない。ギターの弦をそれとなく指でこするわけでもない。 振り返ってみれば、日常のなかで横たわっている、広大に思える「間」に対して、許されていそうなものひとつひとつに距離を置いてきたような気がします。大方許されているとはいえ、「間」を簡単に潰せる、その安易さみたいなものに軽い気持ちで飛びつくことに、僕の場合、どうしても恥ずかしさを感じずにはいられなかったように思います。それは僕自身が、煙草の煙をぼんやりと眺めていることよりも、白と黒とに整理される側に立つことが多かったせいかもしれません。


ぼんやりと明かりが灯った薄暗い中華料理屋で自らを語る井上陽水の姿をなんとなく眺めていたら、こんなことがふっと思い浮かんだのでした。




今日の一曲 井上陽水 / とまどうペリカン

ココナッツの味がする

日曜日、中華街にある山東で大学の友達と食事した。就活は無事に終えたのだそう。おめでとう。
久しぶりに訪れた中華街はいつの間にかチャイハネに席巻されていて、中華街という言葉だけが一人歩きしていた。水餃子、ハチノスと野菜の炒め物、エビチリ、炒飯で腹を満たすと、海が見たくなって象の鼻を行ったり来たりして半日を過ごした 。
吉本隆明の声と言葉 』は結局買うことにした。父がまだ学生だった頃は、あくまでファッションとしてだが吉本隆明の本を日頃から持って歩いていたのだそう。

何だか世界じゅう総崩れみたいに思える現在の情況を重くもなく、軽くもない足どりで歩いている人がここにいるという感じだろうか。

あとがきのなかで吉本隆明は、糸井重里に向けて震えた文字でこのように綴っている。案内を買って出た糸井重里の心遣いは僕にはきめ細やかすぎて疲れてしまうのだが、この行き届いた気の配り方の方が多くの人に響くのかもしれない。

物語

最近の話ではないが少々。
日頃から家からみて北にばかり向かうせいか、気持ちは南に強く留まる。横須賀線、鎌倉、逗子のことを自然と思い浮かぶようになった。逗子の砂浜は白い。中上健次枯木灘』、川端康成千羽鶴』を読んでからか。紀伊半島と九州の形が気になる。
冗談まじりで家系図なんかを思い浮かべてみる。二重、三重、四重と真ん中の自分に重ねられる。血の通ったものによって。土地によって。物語によって。ここのことが一番よくわかる。
昨年の秋にも川端の作品を読んだ。『山の音』。当時は何のことだかわからなかったが、何が書かれているかはもう問題ではない。『波千鳥』は読んだが、『地の果て 至上の時』はもういい。結ばれたものをたどりみえてくるものは源氏物語か。柏木。谷崎訳で第四巻。


枯木灘 (河出文庫 102A)

枯木灘 (河出文庫 102A)

千羽鶴 (新潮文庫)

千羽鶴 (新潮文庫)

山の音 (新潮文庫)

山の音 (新潮文庫)