ライオンとペリカン

こんばんは。
そろそろ季節の変わり目ということでしょうか。この頃は夜になると、眉間から頭にかけて少し痛み出します。からだは知らないところで色んなことを感知してくれているのかもしれません。


夏が過ぎ去った後の、これから少しばかりのあいだの肌寒さは、僕にとって特に印象深く、肌から染み入ってくる物悲しさに触れると、高校生の頃の文化祭が終わってからの日々の記憶に不思議と結びつけられたりします。このことがどう作用するのか、本に向かおうとする気持ちもより一層強まる時期であったりもします。


先週、教育テレビで「LIFE 井上陽水〜40年を語る〜」という番組が、四夜連続で放送されました。自ら綴ったキーワードとともに、井上陽水が、独特の間でもって自分のことを振り返っていく姿がとても印象的でした。合わせて4時間分の番組ともなると、番組のナレーションを務めた宮沢りえの「陽水さん」という言葉がいつの間にか耳に心地よく染み付いているのにも気付かされます。


怒っちゃ負けよ。歌って(自慢して)も負け。喜んでも負けだしね。そんな風に語る陽水は、自分のむき出しの感情を提示すると時に身を滅ぼしてしまう原因となることを、博打やギャンブルから学んだそうです。どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか。僕は普段から何かとどこかに辿り着こうとしてしまう性分のせいか、そんなあやしくすれすれの感覚をもちながらも、知人の前で笑い、はじらいを見せる大人の男たちに憧れを持ちます。


煙草を吸わない。酒も飲まない。麻雀もしない。サングラスもかけない。ギターの弦をそれとなく指でこするわけでもない。 振り返ってみれば、日常のなかで横たわっている、広大に思える「間」に対して、許されていそうなものひとつひとつに距離を置いてきたような気がします。大方許されているとはいえ、「間」を簡単に潰せる、その安易さみたいなものに軽い気持ちで飛びつくことに、僕の場合、どうしても恥ずかしさを感じずにはいられなかったように思います。それは僕自身が、煙草の煙をぼんやりと眺めていることよりも、白と黒とに整理される側に立つことが多かったせいかもしれません。


ぼんやりと明かりが灯った薄暗い中華料理屋で自らを語る井上陽水の姿をなんとなく眺めていたら、こんなことがふっと思い浮かんだのでした。




今日の一曲 井上陽水 / とまどうペリカン