外套、芋粥、鼻

ゴーゴリ『外套・鼻』(岩波文庫)を読む。ヴィットリオ・デ・シーカ自転車泥棒』においての「自転車」のように、厳しい寒さの中での一着の「外套」が、ひとの感情や当時の時代背景など全てを物語る。主人公アカーキイ・アカーキエヴィッチは、賑やかな夜会からの帰り道に、中断された、真っ黒な広場を前にするのだが、この場面がとくに秀逸で震え上がった。ムルソーやグレーゴル・ザムザ同様に、アカーキイ・アカーキエヴィッチという名前もいつのまにか頭から離れることがなくなった。
インターネットで『外套』について調べると、芥川龍之介の『芋粥』に結びついた。確かに、構造が『外套』とほぼ同じなのである。これには驚かされた。ただ、芥川の作品がユーモアであふれているのはよく分かったが、さすがに外套が芋粥となってしまっては、一番美味な部分が損なわれてしまうのでは。
そして、ゴーゴリの『鼻』は、鼻が縮んだり伸びたりするわけではないが、朝食の焼きたてパンの中に入っていたお客の鼻が街中を徘徊しだすという奇怪な話。読者は不可思議で不合理な世界観を、一方的にただただ押し付けられる。こういうの結構好き。カフカの『変身』を読んでるときもこんな感じだったっけ。